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2011/10/07 工藤 公康氏講演「あきらめない男の生き方」
ttp://www.keiomcc.net/sekigaku-report/archives/2011_1/20111007/

プロ入り一年目のことだ。
コーチが「肩を開くな」「肘を上げろ」と指導してきた。
普通の選手なら「はい」といって素直にフォームを修正するところだろう。
しかしドラフト一位の18歳はこう問い返した。「『肩を開く』って、どういうことですか?」
「肘を上げるのは、本当に正しいことなんですか?」
コーチは面喰らいながらも「いいから俺の言うとおりにやれ」と諭した。
しかしそれで引き下がるような新人ではない。
「あなたの言う通りやって肩が壊れたら、責任取ってくれますか?」「何だと?生意気な!」
「責任取れないのなら、僕の好きにさせてください」
そんな激しいやり取りのあと、コーチは彼を無視するようになった。

その日から29年間。あの生意気な新人投手、工藤公康は、すべてを自分で考え、自ら道を切り拓きながら、
現役最年長選手となった今まで投げ続けてきた。

「人から答えをもらってはいけない」と工藤氏は説く。
「課題と答えは一人ひとり違う。それは自分で見つけなければならない。
自分で見つけたオリジナルの答えは、その根底からわかっているから、自分の自信になる」。
 なるほど、といってその言葉をノートに書き留める。いい講演だった、といって会場を後にする。
しかし、ちょっと待てよ、と思う。そのような聴講態度で工藤氏の話を真に聞いたと言えるのか。
だって今言われたばかりではないか、
「人から答えをもらってはいけない」と。しばし反省し、工藤氏の言葉に今一度立ち返ってみる。

 コーチの指導に唯唯諾諾と従う日本の選手を、工藤氏は「家畜」という言葉で表現した。
「家畜」には自分がどうなりたいかというセルフイメージがない。
自分に何が足りなくて、何を食べなければならないのか、といったことは考えもしない。
彼らはただ、全員共通の練習メニューという与えられた餌を食むだけだ。

対して、工藤氏が理想とするのは「野生」の選手である。
野生動物は自ら獲物を追い求める。知恵をめぐらし、技を身につけ、力を不断に高め続けなければ食餌にはありつけない。
飢餓感が日常である生。自ら獲物に死をもたらし、それによって自らの生を永らえる営み。
そのように自らの課題を追い求め、自らを追い詰めることができるような選手のあり方。

自発的な学習が受動的な学習よりも高い効果を持つことは、工藤氏の言を俟たずとも、
教育の現場に身を置いたことのある者なら誰もが実感として納得するはずだ。
しかし、それを知っていながら我々の社会が用意する教育は、一斉授業であったり、画一的な練習メニューであったりする。
そこでは「自らを教育する能力」を涵養する機会が、決定的に不足している。
必要なのはメニューではなくレシピなのだが。

 外部からの刺激に対して、脳という中枢が情報処理を一手に担い、身体各部はその指令に従って動く。
そんな伝統的機能観をチームという組織にあてはめるならば、
個々の選手が「自分はコーチの言う通りに練習し、監督の戦術通りに動けばよい」と考えたとしても不思議ではない。
しかしそのような「家畜」のチームに、長いペナントレースの厳しい勝負を、ギリギリのところで競り勝っていく底力はない。

 では「野生」のチームという理想の組織で、機能はどう分担されるのか。
それを知るには工藤投手が自らの身体で実践していることがヒントになる。
速い球を投げるために、筋肉はただ強くすればよいというものではない。
必要なのは、全身の筋肉が協調して動くこと。
投げるという動作に織り込まれた、無数の微小で精緻な筋肉の収縮パターン。
脳の指令を待っていては到底間に合わないような速度で、それぞれの筋肉が相互に微調整をしながら、収縮と弛緩を繰り返す。

ベルンシュテインが看破していたように、神経回路は単なる脳の指令の通り道ではない。
それは協調された動作の主体であり、私たちの眼に映るダイナミックな投球は、身体ネットワークに秘められた能力の結晶である。
そして練習とは、神経/筋肉がその動作を自ら習得する能動的なプロセスに他ならない。

安定したボールを投げるために最も大事なものは何か。工藤氏は、それは目であるとした。
投手と捕手を結ぶ一本の放物線の延長上に目を置くこと。そして、ボールの行く末から決して目を離さないこと。
同じことを工藤氏は、自らの野球人生でも実践しているかのように見える。
即ち、目標と現状の間にあるギャップを見据え、それを最短距離で埋めるために必要な練習メニューを自ら考えること。
さらには、それを自ら楽しみながらこなしていくこと。
「僕は、練習している時が、いちばんストレスが少ないんです」
そう言った工藤氏の微笑みは、「プロ」とは何か、ということを雄弁に語っていた。

変化球というのは、どこかでわざと力を抜いて投げる球である。だから肩を壊すのだ、と工藤氏は言う。
ボールをコントロールしようという想いが強くなりすぎた投手は、自己の限界を無意識に規定し、筋肉の収縮をその範囲に抑制してしまう。
コントロールというオブセッションにコントロールされはじめた投手は、勢いという若さの特権を失う。
全力で投げようとすれば球は直球になる。
ボールに余計な回転を加えないということは、筋肉に余計な動きをさせないということでもあり、
それは結果的に投手の身体への負担を最少にする働きをする。
ここに、工藤投手が直球にこだわり、かつ現役にこだわることの理由を、我々は同時に見出すことができる。

客観的に見れば、工藤氏を取り巻く現実は厳しい。今年はどこの球団にも所属できず、来年も海外に活路を見出せるという保証はない。
しかし「あきらめない男」は、どこまでも明るく夢を語った。記録のためでも名声のためでもない。前後裁断、ただ「投げる」という行為に自らを一体化させる。
その瞬間を夢見て、工藤氏は今日も投げる。人生の配球の最後に、どんな決め球が繰り出されるのか。
ゲームセットの瞬間まで、工藤公康というボールの行く末を、この目でしっかりと見届けたい
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