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2011年09月08日(木)週刊現代
大研究シリーズ
なぜ僕たちはプロ野球で通用しなかったのか才能か、努力か、それとも・・・・・・
高校時代の名声と、未来への希望を胸に飛び込んだ、憧れの舞台。しかしそこで彼らを待ち受けていたのは、あまりに過酷で厳しい現実だった。
元プロ野球選手11人が語る、一軍と二軍を隔てるもの。
大研究シリーズ
なぜ僕たちはプロ野球で通用しなかったのか才能か、努力か、それとも・・・・・・
高校時代の名声と、未来への希望を胸に飛び込んだ、憧れの舞台。しかしそこで彼らを待ち受けていたのは、あまりに過酷で厳しい現実だった。
元プロ野球選手11人が語る、一軍と二軍を隔てるもの。
☆契約金ドロボーと言われて
「プロに入ると決まったときは、高校時代にやってきたことを続けていけば必ず活躍できると思っていたんです。
しかし高校時代なら多少甘くても打ち損じてくれた球を、プロは逃さずヒットにするし、ボール球は簡単に見極められる。
コントロールのない僕は、エースだった上原(浩治)さんの投球練習での球が寸分たがわずキャッチャーミットに吸い込まれるのを見て仰天しました。
すべてにおいて僕の知っている野球とは違いすぎたんです」
北照高校から'05年、高校生ドラフト3巡目で巨人入りした加登脇卓真(24歳・現香川オリーブガイナーズ)は、入団当時をこのように回顧する。
自信と期待を胸にプロ入りした加登脇が目にしたのは、歴然と存在するレベルの違いだった。そのわずか3年後、彼は戦力外通告を言い渡された。
彼の同期には、今や主力として一軍で闘う脇谷亮太や越智大祐、そして育成枠には山口鉄也がいる。同じ日にプロになったはずだ。
しかし現在、それぞれの立つ場所は、大きく異なっている。期待通りにスターへと成長する者、そして無残にも去っていく者。
両者を隔てたものは一体なんなのだろうか。
人気球団・阪神のドラフト1位として'92年に指名された安達智次郎(37歳・神戸村野工業高出身)は、自らの経験から、ひとつの答えを導き出した。
「最初のコーチとの出会いがすべてを狂わせた」
7年間で一度も一軍のマウンドに上がれなかった現役時代を、彼はこのように述懐する。
この年、ドラフトの話題は松井秀喜(星稜高)一色。安達はその松井の「外れ1位」として、阪神に指名された。
それでも最速150kmに迫る直球を誇った安達少年は、未来のエースとしての期待を一身に集めていた。
しかしプロ入り後すぐに、安達は球速という最大にして唯一の武器を失ってしまう。
「入団してすぐ付いたコーチがコントールを重視する人で、『投手は速い球放ったらええやん』という僕とはまったく考え方が違った。
言われるまま投げるうちにフォームは小さくなり、スピードも出なくなった。自分のピッチングが小さくまとめられるようで、嫌で嫌で仕方なかった」
さらに安達は、指導者たちの意見の相違によって一軍への昇格のチャンスも潰されていたという噂を耳にしたという。
「1年目の夏に一軍に上がる計画があったそうなんです。なのに、そのコーチが上げたがらなかった。
彼のなかで納得できるまで手元から離したくなかったからだそうです。その時ばかりは阪神に入ったことを後悔しましたよ」
そして安達は悪循環に陥る。一旦崩れてしまったフォームを取り戻すことは二度とできない。
あったはずの実力が、どんどん発揮できなくなっていく現実に、安達は投げる気力を失っていく。
「もう全然ダメでした。投げられたものが投げられない。心は折れてしまうし、もちろんドラ1ですから『契約金ドロボー』とか言われてね」
その後は外野手に転向、投手への再転向と居場所を模索しながら'99年に戦力外通告を受け、引退。
現在三宮でバーを営む彼は、「僕はよく見られようとしすぎました」という。
そしてプロの投手に必要なのは、「天狗でナルシストなことだ」とまとめた。
だが、つい昨日まで高校生だった新人選手たちが、一流選手だけが集まるプロの中で自分を確立するには、強靭な精神力が求められる。
'97年のドラフト会議は、「天狗でナルシスト」という形容がぴったりな、一人の高校生投手に注目が集まっていた。
その年の甲子園準優勝左腕、川口知哉(32歳・平安高出身)である。川口の現役時代にバッテリーコーチとして指導にあたった中沢伸二も、
「順調に育てば、間違いなくエースになる器だった」と、その素質の高さを回顧する。
ではそれほどまでのスター候補が、なぜ周囲の期待に応えることなく、現役生活7年という短命に終わってしまったのだろうか。
現在、女子野球チーム・京都アストドリームスでコーチを務める川口は、
意外にも、「当時の自分には、信念がなかった」と答えた。
川口も前出の安達と同様、プロ入り直後に受けたコーチの助言がもとで、フォームを崩した経験を持っていたのだ。
「ポリシーを貫く勇気がなかったんです。『嫌だ』と思っても、反対できなかった。
内心で納得できないままフォームを矯正するうち、思うように投げられなくなっていったんです」
「自信家」のように見られていた川口も、その内面は、人並みの不安に駆られた18歳だ。中沢は当時の川口についてこのように述べる。
「私の経験でも、自分の主張を貫き通した人のほうが結果を残せている気がします。
川口の時は、投手コーチが何度も替わり、彼が混乱する一因になったのは間違いありません。
しかし、コーチの指導の何を受け入れ、何を切り捨てるかは自分の判断です。その点、川口はあまりに素直な性格をしていました」
☆自分を見失ってしまった
ビッグマウスで知られた川口だったが、それもマスコミら周囲に求められるままに発言していた結果だった。
「実は僕、あまりしゃべりが得意ではないんです。でも、マスコミの人がやってくると、『こんな事を言ってほしいんだな』というのがなんとなくわかってしまう。
そのせいで、いつの間にか『ビッグマウス』と言われるようになってしまった」
実社会では「空気が読める」と重宝される性格なのかもしれないが、プロ野球の世界では、「鈍感力」とも呼べるメンタルの強さが求められる。中沢が言う。
「投手はマウンドに立てば、自陣のベンチをはじめ、敵方の監督や選手、さらにはファンと、球場にいる人間すべての視線を感じるわけです。
精神力の強さは必須なんです。
たとえば、同じオリックスで活躍した星野伸之は130kmのストレートと遅いカーブだけで一流投手になっている。
球威がなくても冷静に状況を把握し、自分の投球が出来てこそ本当のプロなんですよ」
「自分の投球」とは何か。
チームでの「自分の仕事」は何なのか---一流ぞろいのプロ野球界で生き抜くためには、自分の生きられる道を、臨機応変に見極めていく能力も必要になる。
'98年のドラフト3位で、広島カープ入りした矢野修平(31歳・現福岡ソフトバンクホークス・トレーナー)は、入団時に受けたショックを忘れられないという。
「僕は進学校(宮崎・高鍋高校)出身だったので、カープの練習量に度肝を抜かれた。
なんとか負けないように頑張ったんですが、環境になかなか適応できず、プロの雰囲気に慣れるだけで2~3年はかかってしまった」
その後、肩の故障もあり、投手としては何の実績も残せぬまま'04年に引退する。だが矢野は、何度もチャンスを逸していた自分に、今更気づかされるという。
「与えられた機会に、ことごとく結果を残せなかった。練習は人一倍やったつもりですが、プロはそれだけではダメなんです。
結果を出すべきところで実力を発揮する力が必要だった」
プロの練習に、矢野とは逆の反応を示した男もいた。
'08年に北陸大谷高から日本ハムファイターズ入り('07年高校ドラフト6巡目)した豊島明好(21歳・現横浜ベイスターズ打撃投手)だ。
「逐一監督の指導に従わなくてはならない高校時代と違い、みんな自分でメニューを組んで練習している。
そのなかで、僕はプロ1年目に開幕一軍のメンバーに選ばれたんです」その結果、「プロとしての自主性の意味を取り違えてしまった」と豊島は言う。
その年のオフ、このままいけば一軍は確実だと考えた豊島は、自主トレを大した目的意識もないまま、調整程度にこなしてしまう。
それが、たまたま見に来たコーチに「豊島はいい加減に自主トレをする奴」という悪印象を与えてしまった。
「その自主トレがレッテルになってしまったんです。
2年後に解雇宣告を受けたときも、フロントから、『自主トレを真面目にやってほしかった』と言われたくらいでした」
元西武ライオンズの投手・松川誉弘(26歳・港高出身・'03年ドラフト4巡目)は、毎日目の当たりにするスター選手の投球に自信を失っていった。
「プロ1年目は怖いものしらずのイケイケドンドンでした(苦笑)。
先輩やコーチもあれこれアドバイスしてくれたのですが、全部試しているうちに腕が思いっきり振れなくなり、球のスピードもなくなった。
そのうち、自分で自分の投げ方がわからなくなり、3年目にはマウンドに立つことすら、怖くなってしまった」
肘の悪化もあり、'07年オフに戦力外通告。わずか4年のプロ野球生活だった。
☆平気で努力し続けるスター
'95年に、九州学院高からドラ1で投手としてオリックスに入団した今村文昭(34歳・現オリックス打撃投手)は、その入団直後に内野手転向を告げられる。
彼のプロ生活は、まさに「自分探しの旅」のようであった。
「5年目のことでした。当時の監督である仰木(彬)さんに呼び出されて、
『もう野手はいいだろう。お前はピッチャーの方が合っている。腹を括れ』と言われたんです。こちらとしては『ハイ』と言うしかありませんでした」
その3年後、今村は野手としても投手としても結果を残せぬまま、最後は投手として戦力外通告を受けている。今村は言う。
「現役時代の僕には、『先を読む』ということができていませんでした。自分で考えていたつもりで、結局行き当たりばったりに生きていた。
試合中もボールばかり目で追って、相手の心理まで考えられなかった」
今村とともにオリックスの一員であった川口は、当時球界のアイドルだったスター選手のことを、今でも思い出す。
「イチローさんが試合の後、どんなに遅くなっても必ずウェイトトレーニングをやっていたんです。
田口(壮)さんもそうでした。イチローさんのようにプロである以上、信念をもって自主的に練習する。そういう気持ちが僕には欠けていたんです」
かつて横浜ベイスターズで二軍監督などを務めた日野茂は、プロで名をなす者には、大きな共通点があるという。
「新人選手は誰もが将来を嘱望されて入ってくるが、誰もがレギュラーになれるわけではない。
他人より頭ひとつ飛び出すために大切な事は、自分にはプロとして何が足りないのかをいち早く察知し、
練習で足りないものを補おうとする積極的な姿勢です。
若くして球界を去る者の多くは、何が自分に足りないのか気づけなかった場合がほとんどです」
日野は、'99年のドラフト1位で、PL学園から横浜入りした田中一徳(29歳)に対しても、「もったいなかった」という印象を持っている。
田中はプロ1年目から一軍出場を果たし、翌年にはレフトの守備や代走要員として一軍に定着しかけたが、
'05年からは二軍に甘んじ、翌年には戦力外通告を受けた。
田中本人は、プロ野球生活を顧みるとき、ある先輩野手のことを思い出す。'00年に首位打者に輝いた金城龍彦だ。
その年の序盤、野手に転向して2年目だった金城は、突然レギュラーを獲得する。田中が当時を回想する。
「金城さんがレギュラーになるきっかけとなった巨人戦での打席、実は僕のバットを使っているんです。二人ともなかなか試合に出られない時期でした。
その試合でヒットを打って、次の試合も代打に呼ばれて、僕のバットで見事に打った。3試合目に進藤(達哉)さんがケガをして、三塁の定位置を獲得したんです。
そういうターニングポイントでチャンスを掴めるのか掴めないのかなんでしょうね。たぶんあの頃の金城さんは、目を瞑っても打てていた気がする。
それだけ努力をしていたんだと思います」
同じタイプだと思っていた金城が、目の前で一流選手への階段を突然登っていく。田中の中に獏とした焦りが芽生えていた。
しかしそれは、彼の運命を変えることは出来なかった。
☆プロになるのが目標ではダメ
当時、田中が本職としたセンターのポジションには波留敏夫がいた。田中は波留からポジションを奪うことができなかったのだ。
二人の違いについて日野が言う。
「二人ともプロとしては小柄で体つきも似ていました。ただ、中身の評価は波留の方が高かった。波留はハングリーで、目をギラギラさせていましたから。
一方の田中はいつもクールでスマートにプレーしようとしていました。それでうまくいけば誰も文句は言いません。
でも、そのままでは波留からポジションを奪えないとわかったら、もっとなりふり構わずやってもよかったのではないかと、思うんです」
二人の能力に大きな差があったわけではない。ただどちらを使いたいかというと、勝利への飢えを漲らせた熱血漢に、自然と票は集まった。
「田中は足も速かったし、捕球の技術も申し分なかった。ただその俊足を活かすだけの盗塁の技術には、まだ鍛える余地があった。
盗塁するためにはランナーに出なくてはなりません。そのためにはバッティング技術も必要になる。
一軍に定着するために、そうしたトータルな技術を田中にはもっと磨いてほしかった」
甲子園に計3度出場し、'05年のドラフト1位で千葉ロッテマリーンズに入団した柳田将利(23歳・現NOMOベースボールクラブ)も、
能力を発揮できぬままグラウンドを去った投手の一人だ。
元千葉ロッテ二軍監督の古賀英彦は、初めて柳田のピッチングを見た時の驚きを鮮明に記憶している。
「彼の投球を見て、さすがバレンタイン(監督=当時)が見込んだドラフト1位、モノが違うと思いました。あれだけの身体能力をもった選手はまれですから」
だが、それはホンのつかの間の輝きだった。以降、古賀が再び柳田本来の投球を目にすることないまま、柳田は3年目の'08年、球界から消えていった。
その理由を本人が語る。
「子供の頃から高校までずーっと野球漬けの生活で、プロになるのが人生の最終目標みたいになっていたんです。
だから、プロに入ったときは解放感でいっぱいでしたよ。練習が終われば外出は自由だし、お小遣いもたっぷりある。
ついつい遊ぶことに熱中して、野球の方が疎かになってしまったんです」
体重はたちまち100kgをオーバーし、豪速球投手の輝きは一気に色褪せた。
「要するに、彼はプロ野球選手である以前に、人間としてまだ子供だったということです」
と言う古賀は、当時を振り返ると、いまでも後悔の念にかられることがある。
「当時のロッテは、バレンタイン監督が主導するアメリカ式の練習法を取り入れていました。
要は選手の自主性を重んじる指導をしていたのです。結果だけ見れば、柳田にはそれが合っていなかった。
もし広島のような猛練習で知られる選手管理が徹底した球団に行っていたら、あるいは柳田はプロとして大成したかもしれないという気もするんですよ」
もし他のコーチの指導を受けていたら・・・もし他のチームに行っていたら・・・あるいはここに登場した選手たちの運命は変わっていたのだろうか。
古賀は言う。
「柳田の二つ先輩には、今のエース・成瀬(善久)がいました。入団当時は肘に故障を抱え、彼が3年目になるまで1球も全力投球を見たことなかった。
柳田と成瀬で与えられた環境に差はありません。それでも成瀬は今の地位を勝ちとった」
実力か運か。そこにはコーチとの相性や巡り合わせもあるかもしれない。
だが、どんな実力者にとっても、「輝き」は得ること以上に、持続することが難しいものだ。
川之江高時代から、トルネードサイドと言われる独特のフォームで注目された右腕、鎌倉健(26歳・日ハム・'02年ドラフト3巡目)は、
入団後、順調に成長を果たし、3年目には先発で7勝を挙げる活躍を見せた。しかしその年に右肘を痛め、手術に踏み切るも完治することなく、
'07年に戦力外となった。「明らかにケアを怠っていました。手術前も、きっと手術後も、甘えがあったんだと思います」
そんな鎌倉は、当時チームメイトだった球界を代表する2人のスター選手のことをよく思い出すという。ダルビッシュ有と小笠原道大(現巨人)だ。
「ダルなんて年を追う毎に確実に成長していくでしょ。これ以上ないと思っても、更に強く、うまくなっていく。
それはダルに限らず、続けている人はそれだけですごいんです。
有名な話ですけど、小笠原さんなんてアップに2~3時間かける。そして誰よりも遅くまで残って、入念に身体にケアを施す。
だから大きな怪我なく毎年結果を残せるんですよね」
☆ああ、これで終わったな
高知商業から'88年にヤクルトスワローズ入りした岡幸俊(41歳)も、怪我に泣かされた一人だ。
ドラフト2位指名ながら、巨人、ロッテなど5球団が競合した逸材は、1年目から開幕一軍入りを果たす。
同期1位指名の川崎憲次郎とともに、将来の球団の顔と嘱望された。だがすでに、岡の選手生命は限界を迎えていた。
「1年目の6月には肘の調子がおかしくなり、握力も落ちていきました。指先に微妙な力が入らなくなって、思うように投げられなくなったんです」
それまで一度も怪我をしたことのない岡は、生まれて初めての経験に激しく動揺。
どうしたらいいかわからず、誰にも相談できないまま、2年間も痛みを自覚しながら、だましだまし投げ続けた。
「3年目になると、これまで味わったことのない痛みが出るようになり、とうとう『痛くて字も書けません』と球団に伝えたんです。
そのときは、さすがに『ああ、これで俺の野球人生も終わったな』と思いました」
肘の手術を行ったものの、以後は二軍でも登板のないまま、'95年に引退した。
出会い、言葉、迷い、不注意---なにかひとつ、ボタンを掛け違えるだけで、スターへの道は無残にも崩れてしまう。
それほどまでにプロ野球の世界は厳しく儚い。
若い選手を安価で獲得できる育成枠の創設以降、戦力外通告を受ける選手の平均年齢も、若年化の傾向にあるという。
その一方で、若くしてプロの世界から弾かれた選手が、社会人チームや独立リーグに所属し、再びプロを目指すケースも増えている。
元巨人の加登脇も、ロッテを解雇された柳田も、今季オフのトライアウトを目指し、日々トレーニングに励んでいる。
なぜ、あの厳しい世界に戻りたいのか。
岡は言う。
「僕のように一軍半で解雇になった選手というのは、プロの本当の厳しさを知らないんです。
その前に自分に負けてしまった。だから本当に高次元なプロの闘いに参加できていないんです。
もし、最近『野球を始めたい』と言い出した息子がいつかプロを目指すようになったら、僕は間違いなく背中を押すと思いますよ」
文中敬称略
「週刊現代」2011年9月10日号より
「プロに入ると決まったときは、高校時代にやってきたことを続けていけば必ず活躍できると思っていたんです。
しかし高校時代なら多少甘くても打ち損じてくれた球を、プロは逃さずヒットにするし、ボール球は簡単に見極められる。
コントロールのない僕は、エースだった上原(浩治)さんの投球練習での球が寸分たがわずキャッチャーミットに吸い込まれるのを見て仰天しました。
すべてにおいて僕の知っている野球とは違いすぎたんです」
北照高校から'05年、高校生ドラフト3巡目で巨人入りした加登脇卓真(24歳・現香川オリーブガイナーズ)は、入団当時をこのように回顧する。
自信と期待を胸にプロ入りした加登脇が目にしたのは、歴然と存在するレベルの違いだった。そのわずか3年後、彼は戦力外通告を言い渡された。
彼の同期には、今や主力として一軍で闘う脇谷亮太や越智大祐、そして育成枠には山口鉄也がいる。同じ日にプロになったはずだ。
しかし現在、それぞれの立つ場所は、大きく異なっている。期待通りにスターへと成長する者、そして無残にも去っていく者。
両者を隔てたものは一体なんなのだろうか。
人気球団・阪神のドラフト1位として'92年に指名された安達智次郎(37歳・神戸村野工業高出身)は、自らの経験から、ひとつの答えを導き出した。
「最初のコーチとの出会いがすべてを狂わせた」
7年間で一度も一軍のマウンドに上がれなかった現役時代を、彼はこのように述懐する。
この年、ドラフトの話題は松井秀喜(星稜高)一色。安達はその松井の「外れ1位」として、阪神に指名された。
それでも最速150kmに迫る直球を誇った安達少年は、未来のエースとしての期待を一身に集めていた。
しかしプロ入り後すぐに、安達は球速という最大にして唯一の武器を失ってしまう。
「入団してすぐ付いたコーチがコントールを重視する人で、『投手は速い球放ったらええやん』という僕とはまったく考え方が違った。
言われるまま投げるうちにフォームは小さくなり、スピードも出なくなった。自分のピッチングが小さくまとめられるようで、嫌で嫌で仕方なかった」
さらに安達は、指導者たちの意見の相違によって一軍への昇格のチャンスも潰されていたという噂を耳にしたという。
「1年目の夏に一軍に上がる計画があったそうなんです。なのに、そのコーチが上げたがらなかった。
彼のなかで納得できるまで手元から離したくなかったからだそうです。その時ばかりは阪神に入ったことを後悔しましたよ」
そして安達は悪循環に陥る。一旦崩れてしまったフォームを取り戻すことは二度とできない。
あったはずの実力が、どんどん発揮できなくなっていく現実に、安達は投げる気力を失っていく。
「もう全然ダメでした。投げられたものが投げられない。心は折れてしまうし、もちろんドラ1ですから『契約金ドロボー』とか言われてね」
その後は外野手に転向、投手への再転向と居場所を模索しながら'99年に戦力外通告を受け、引退。
現在三宮でバーを営む彼は、「僕はよく見られようとしすぎました」という。
そしてプロの投手に必要なのは、「天狗でナルシストなことだ」とまとめた。
だが、つい昨日まで高校生だった新人選手たちが、一流選手だけが集まるプロの中で自分を確立するには、強靭な精神力が求められる。
'97年のドラフト会議は、「天狗でナルシスト」という形容がぴったりな、一人の高校生投手に注目が集まっていた。
その年の甲子園準優勝左腕、川口知哉(32歳・平安高出身)である。川口の現役時代にバッテリーコーチとして指導にあたった中沢伸二も、
「順調に育てば、間違いなくエースになる器だった」と、その素質の高さを回顧する。
ではそれほどまでのスター候補が、なぜ周囲の期待に応えることなく、現役生活7年という短命に終わってしまったのだろうか。
現在、女子野球チーム・京都アストドリームスでコーチを務める川口は、
意外にも、「当時の自分には、信念がなかった」と答えた。
川口も前出の安達と同様、プロ入り直後に受けたコーチの助言がもとで、フォームを崩した経験を持っていたのだ。
「ポリシーを貫く勇気がなかったんです。『嫌だ』と思っても、反対できなかった。
内心で納得できないままフォームを矯正するうち、思うように投げられなくなっていったんです」
「自信家」のように見られていた川口も、その内面は、人並みの不安に駆られた18歳だ。中沢は当時の川口についてこのように述べる。
「私の経験でも、自分の主張を貫き通した人のほうが結果を残せている気がします。
川口の時は、投手コーチが何度も替わり、彼が混乱する一因になったのは間違いありません。
しかし、コーチの指導の何を受け入れ、何を切り捨てるかは自分の判断です。その点、川口はあまりに素直な性格をしていました」
☆自分を見失ってしまった
ビッグマウスで知られた川口だったが、それもマスコミら周囲に求められるままに発言していた結果だった。
「実は僕、あまりしゃべりが得意ではないんです。でも、マスコミの人がやってくると、『こんな事を言ってほしいんだな』というのがなんとなくわかってしまう。
そのせいで、いつの間にか『ビッグマウス』と言われるようになってしまった」
実社会では「空気が読める」と重宝される性格なのかもしれないが、プロ野球の世界では、「鈍感力」とも呼べるメンタルの強さが求められる。中沢が言う。
「投手はマウンドに立てば、自陣のベンチをはじめ、敵方の監督や選手、さらにはファンと、球場にいる人間すべての視線を感じるわけです。
精神力の強さは必須なんです。
たとえば、同じオリックスで活躍した星野伸之は130kmのストレートと遅いカーブだけで一流投手になっている。
球威がなくても冷静に状況を把握し、自分の投球が出来てこそ本当のプロなんですよ」
「自分の投球」とは何か。
チームでの「自分の仕事」は何なのか---一流ぞろいのプロ野球界で生き抜くためには、自分の生きられる道を、臨機応変に見極めていく能力も必要になる。
'98年のドラフト3位で、広島カープ入りした矢野修平(31歳・現福岡ソフトバンクホークス・トレーナー)は、入団時に受けたショックを忘れられないという。
「僕は進学校(宮崎・高鍋高校)出身だったので、カープの練習量に度肝を抜かれた。
なんとか負けないように頑張ったんですが、環境になかなか適応できず、プロの雰囲気に慣れるだけで2~3年はかかってしまった」
その後、肩の故障もあり、投手としては何の実績も残せぬまま'04年に引退する。だが矢野は、何度もチャンスを逸していた自分に、今更気づかされるという。
「与えられた機会に、ことごとく結果を残せなかった。練習は人一倍やったつもりですが、プロはそれだけではダメなんです。
結果を出すべきところで実力を発揮する力が必要だった」
プロの練習に、矢野とは逆の反応を示した男もいた。
'08年に北陸大谷高から日本ハムファイターズ入り('07年高校ドラフト6巡目)した豊島明好(21歳・現横浜ベイスターズ打撃投手)だ。
「逐一監督の指導に従わなくてはならない高校時代と違い、みんな自分でメニューを組んで練習している。
そのなかで、僕はプロ1年目に開幕一軍のメンバーに選ばれたんです」その結果、「プロとしての自主性の意味を取り違えてしまった」と豊島は言う。
その年のオフ、このままいけば一軍は確実だと考えた豊島は、自主トレを大した目的意識もないまま、調整程度にこなしてしまう。
それが、たまたま見に来たコーチに「豊島はいい加減に自主トレをする奴」という悪印象を与えてしまった。
「その自主トレがレッテルになってしまったんです。
2年後に解雇宣告を受けたときも、フロントから、『自主トレを真面目にやってほしかった』と言われたくらいでした」
元西武ライオンズの投手・松川誉弘(26歳・港高出身・'03年ドラフト4巡目)は、毎日目の当たりにするスター選手の投球に自信を失っていった。
「プロ1年目は怖いものしらずのイケイケドンドンでした(苦笑)。
先輩やコーチもあれこれアドバイスしてくれたのですが、全部試しているうちに腕が思いっきり振れなくなり、球のスピードもなくなった。
そのうち、自分で自分の投げ方がわからなくなり、3年目にはマウンドに立つことすら、怖くなってしまった」
肘の悪化もあり、'07年オフに戦力外通告。わずか4年のプロ野球生活だった。
☆平気で努力し続けるスター
'95年に、九州学院高からドラ1で投手としてオリックスに入団した今村文昭(34歳・現オリックス打撃投手)は、その入団直後に内野手転向を告げられる。
彼のプロ生活は、まさに「自分探しの旅」のようであった。
「5年目のことでした。当時の監督である仰木(彬)さんに呼び出されて、
『もう野手はいいだろう。お前はピッチャーの方が合っている。腹を括れ』と言われたんです。こちらとしては『ハイ』と言うしかありませんでした」
その3年後、今村は野手としても投手としても結果を残せぬまま、最後は投手として戦力外通告を受けている。今村は言う。
「現役時代の僕には、『先を読む』ということができていませんでした。自分で考えていたつもりで、結局行き当たりばったりに生きていた。
試合中もボールばかり目で追って、相手の心理まで考えられなかった」
今村とともにオリックスの一員であった川口は、当時球界のアイドルだったスター選手のことを、今でも思い出す。
「イチローさんが試合の後、どんなに遅くなっても必ずウェイトトレーニングをやっていたんです。
田口(壮)さんもそうでした。イチローさんのようにプロである以上、信念をもって自主的に練習する。そういう気持ちが僕には欠けていたんです」
かつて横浜ベイスターズで二軍監督などを務めた日野茂は、プロで名をなす者には、大きな共通点があるという。
「新人選手は誰もが将来を嘱望されて入ってくるが、誰もがレギュラーになれるわけではない。
他人より頭ひとつ飛び出すために大切な事は、自分にはプロとして何が足りないのかをいち早く察知し、
練習で足りないものを補おうとする積極的な姿勢です。
若くして球界を去る者の多くは、何が自分に足りないのか気づけなかった場合がほとんどです」
日野は、'99年のドラフト1位で、PL学園から横浜入りした田中一徳(29歳)に対しても、「もったいなかった」という印象を持っている。
田中はプロ1年目から一軍出場を果たし、翌年にはレフトの守備や代走要員として一軍に定着しかけたが、
'05年からは二軍に甘んじ、翌年には戦力外通告を受けた。
田中本人は、プロ野球生活を顧みるとき、ある先輩野手のことを思い出す。'00年に首位打者に輝いた金城龍彦だ。
その年の序盤、野手に転向して2年目だった金城は、突然レギュラーを獲得する。田中が当時を回想する。
「金城さんがレギュラーになるきっかけとなった巨人戦での打席、実は僕のバットを使っているんです。二人ともなかなか試合に出られない時期でした。
その試合でヒットを打って、次の試合も代打に呼ばれて、僕のバットで見事に打った。3試合目に進藤(達哉)さんがケガをして、三塁の定位置を獲得したんです。
そういうターニングポイントでチャンスを掴めるのか掴めないのかなんでしょうね。たぶんあの頃の金城さんは、目を瞑っても打てていた気がする。
それだけ努力をしていたんだと思います」
同じタイプだと思っていた金城が、目の前で一流選手への階段を突然登っていく。田中の中に獏とした焦りが芽生えていた。
しかしそれは、彼の運命を変えることは出来なかった。
☆プロになるのが目標ではダメ
当時、田中が本職としたセンターのポジションには波留敏夫がいた。田中は波留からポジションを奪うことができなかったのだ。
二人の違いについて日野が言う。
「二人ともプロとしては小柄で体つきも似ていました。ただ、中身の評価は波留の方が高かった。波留はハングリーで、目をギラギラさせていましたから。
一方の田中はいつもクールでスマートにプレーしようとしていました。それでうまくいけば誰も文句は言いません。
でも、そのままでは波留からポジションを奪えないとわかったら、もっとなりふり構わずやってもよかったのではないかと、思うんです」
二人の能力に大きな差があったわけではない。ただどちらを使いたいかというと、勝利への飢えを漲らせた熱血漢に、自然と票は集まった。
「田中は足も速かったし、捕球の技術も申し分なかった。ただその俊足を活かすだけの盗塁の技術には、まだ鍛える余地があった。
盗塁するためにはランナーに出なくてはなりません。そのためにはバッティング技術も必要になる。
一軍に定着するために、そうしたトータルな技術を田中にはもっと磨いてほしかった」
甲子園に計3度出場し、'05年のドラフト1位で千葉ロッテマリーンズに入団した柳田将利(23歳・現NOMOベースボールクラブ)も、
能力を発揮できぬままグラウンドを去った投手の一人だ。
元千葉ロッテ二軍監督の古賀英彦は、初めて柳田のピッチングを見た時の驚きを鮮明に記憶している。
「彼の投球を見て、さすがバレンタイン(監督=当時)が見込んだドラフト1位、モノが違うと思いました。あれだけの身体能力をもった選手はまれですから」
だが、それはホンのつかの間の輝きだった。以降、古賀が再び柳田本来の投球を目にすることないまま、柳田は3年目の'08年、球界から消えていった。
その理由を本人が語る。
「子供の頃から高校までずーっと野球漬けの生活で、プロになるのが人生の最終目標みたいになっていたんです。
だから、プロに入ったときは解放感でいっぱいでしたよ。練習が終われば外出は自由だし、お小遣いもたっぷりある。
ついつい遊ぶことに熱中して、野球の方が疎かになってしまったんです」
体重はたちまち100kgをオーバーし、豪速球投手の輝きは一気に色褪せた。
「要するに、彼はプロ野球選手である以前に、人間としてまだ子供だったということです」
と言う古賀は、当時を振り返ると、いまでも後悔の念にかられることがある。
「当時のロッテは、バレンタイン監督が主導するアメリカ式の練習法を取り入れていました。
要は選手の自主性を重んじる指導をしていたのです。結果だけ見れば、柳田にはそれが合っていなかった。
もし広島のような猛練習で知られる選手管理が徹底した球団に行っていたら、あるいは柳田はプロとして大成したかもしれないという気もするんですよ」
もし他のコーチの指導を受けていたら・・・もし他のチームに行っていたら・・・あるいはここに登場した選手たちの運命は変わっていたのだろうか。
古賀は言う。
「柳田の二つ先輩には、今のエース・成瀬(善久)がいました。入団当時は肘に故障を抱え、彼が3年目になるまで1球も全力投球を見たことなかった。
柳田と成瀬で与えられた環境に差はありません。それでも成瀬は今の地位を勝ちとった」
実力か運か。そこにはコーチとの相性や巡り合わせもあるかもしれない。
だが、どんな実力者にとっても、「輝き」は得ること以上に、持続することが難しいものだ。
川之江高時代から、トルネードサイドと言われる独特のフォームで注目された右腕、鎌倉健(26歳・日ハム・'02年ドラフト3巡目)は、
入団後、順調に成長を果たし、3年目には先発で7勝を挙げる活躍を見せた。しかしその年に右肘を痛め、手術に踏み切るも完治することなく、
'07年に戦力外となった。「明らかにケアを怠っていました。手術前も、きっと手術後も、甘えがあったんだと思います」
そんな鎌倉は、当時チームメイトだった球界を代表する2人のスター選手のことをよく思い出すという。ダルビッシュ有と小笠原道大(現巨人)だ。
「ダルなんて年を追う毎に確実に成長していくでしょ。これ以上ないと思っても、更に強く、うまくなっていく。
それはダルに限らず、続けている人はそれだけですごいんです。
有名な話ですけど、小笠原さんなんてアップに2~3時間かける。そして誰よりも遅くまで残って、入念に身体にケアを施す。
だから大きな怪我なく毎年結果を残せるんですよね」
☆ああ、これで終わったな
高知商業から'88年にヤクルトスワローズ入りした岡幸俊(41歳)も、怪我に泣かされた一人だ。
ドラフト2位指名ながら、巨人、ロッテなど5球団が競合した逸材は、1年目から開幕一軍入りを果たす。
同期1位指名の川崎憲次郎とともに、将来の球団の顔と嘱望された。だがすでに、岡の選手生命は限界を迎えていた。
「1年目の6月には肘の調子がおかしくなり、握力も落ちていきました。指先に微妙な力が入らなくなって、思うように投げられなくなったんです」
それまで一度も怪我をしたことのない岡は、生まれて初めての経験に激しく動揺。
どうしたらいいかわからず、誰にも相談できないまま、2年間も痛みを自覚しながら、だましだまし投げ続けた。
「3年目になると、これまで味わったことのない痛みが出るようになり、とうとう『痛くて字も書けません』と球団に伝えたんです。
そのときは、さすがに『ああ、これで俺の野球人生も終わったな』と思いました」
肘の手術を行ったものの、以後は二軍でも登板のないまま、'95年に引退した。
出会い、言葉、迷い、不注意---なにかひとつ、ボタンを掛け違えるだけで、スターへの道は無残にも崩れてしまう。
それほどまでにプロ野球の世界は厳しく儚い。
若い選手を安価で獲得できる育成枠の創設以降、戦力外通告を受ける選手の平均年齢も、若年化の傾向にあるという。
その一方で、若くしてプロの世界から弾かれた選手が、社会人チームや独立リーグに所属し、再びプロを目指すケースも増えている。
元巨人の加登脇も、ロッテを解雇された柳田も、今季オフのトライアウトを目指し、日々トレーニングに励んでいる。
なぜ、あの厳しい世界に戻りたいのか。
岡は言う。
「僕のように一軍半で解雇になった選手というのは、プロの本当の厳しさを知らないんです。
その前に自分に負けてしまった。だから本当に高次元なプロの闘いに参加できていないんです。
もし、最近『野球を始めたい』と言い出した息子がいつかプロを目指すようになったら、僕は間違いなく背中を押すと思いますよ」
文中敬称略
「週刊現代」2011年9月10日号より
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